好きなら全力投球

アイドルとか舞台とかオタクとかのはなし

「イケメン若手俳優」と称される彼らは、「若手」が取れても「イケメン俳優」としてやっていけるのだろうか

わたしは自分の推しがいったいどの程度の位置(地位?)にいるのか、よくわかりません。
本格デビューはテニミュだし、その後も2.5次元舞台や俗に言うイケメンわらわら舞台を中心に活動しているので、まあイケメン若手俳優と称して問題ないでしょう。
しかし、年齢も上がってきてそろそろ若手とは言えないし、2.5次元舞台も卒業なんじゃないかなぁ…という感じです。推しはじめて数ヶ月なので何も知りませんが。
最近は小劇場の舞台に多く出ているような印象的です。今のところ、次に2.5次元に出る予定はありません。



自分は2.5次元から入ったくせに、推しには今後2.5次元には出てほしくないなぁ…と思ったり。わがままですね。
でも、2.5次元を中心に活動している若手には、どうしても限界を感じてしまうのです。それは、同年代しか出ない舞台での成長の限界だったり、単純に年齢の限界だったり、知名度の限界だったり、いろんなものがあると思います。

やはりどうしても、一般人から見たら2.5次元はイロモノですもの。自分もどハマりする前は「お金をかけたコスプレ」程度に思っていました。
有名ではない若い人たちが、コスプレをして歌って踊る。多少歌や演技のクオリティは低くても、そこは「イケメン」ということで許されてしまう「幼稚な演劇」…そういった認識でした。
今はそれは誤解だったと思いますし(一部以前の認識どおりの舞台にがあることも事実ですが)2.5次元の楽しみは、他の舞台とはちょっと違った特殊なものがあることもわかるようになりました。

それでもやっぱりイロモノです。2.5次元出身と言ったときの世間の反応なんてそんなもんです。
テニミュ出身でもそれを打ち消すほどに知名度を上げて「えっ、テニミュに出てたの?!」と言われるような人もいますが、ごく一部です。

わたしは2.5次元舞台での経験を悪いものだと思っているわけではありません。大勢が心血を注いで作った作品に携わることが悪い経験なわけがありません。
2.5次元作品で好きなものもたくさんありますし、もし彼らがそれに関わったことを後悔していたら悲しいです。
それでも2.5次元に出ていた、というのはある種の偏見を含んだレッテルを貼られることと同義だと思っています。

似たような例で言えば、ニコ動出身の歌手や声優のようなものでしょうか。別にニコ動からブレイクしようが、オーディションなどを経てデビューしようが、売れてしまえば同じかもしれません。
それでも「ニコ動出身」という肩書きは後々までついて回ります。
わたしの知り合いに声優志望がいますが、「ほんの端役でも何でもいいからデビューできるまではニコ動には手を出さない」と言っていました。
まあ、売れる人はニコ動をやろうがやるまいが、そのうち売れるとは思いますが。



話を戻します。
2.5次元を中心としている若手は、そういったある種のレッテルを貼られた状態で、若手と呼べなくなったときにどうなっていくのでしょう。
そもそも、若手俳優界隈に詳しくないので若手のその後がどうなっていくのかをよく知りません。わたしが知っているごく一部は、ライダーものに出たり、声優をやったり、小劇場に出たり…そのくらいでしょうか。

中でも声優は最近増えてきたような気がします。これはある意味一番堅実な「延命処置」なのかもしれません。
もともと2.5次元を見る人は原作を好きな人が多くて、アニメが好きな人が多くて、声優に対しても好意的な人が多い、と言えるでしょう。
また、昨今の声優界もイケメンブームです。歌って踊れるイケメン声優がもてはやされる時代です。2.5次元出身ならもちろん歌って踊れるし、もともと顔で勝負していない声優の中に入ればほぼ間違いなくイケメン枠を勝ち取れます。
さらに、彼らにとって堅実な「延命処置」と言える一番の要因は、ピークの年齢です。
今の声優界でトップと言える人気を誇っているのは40歳前後の層でしょう。
2.5次元舞台の中心が10代から20代前半、よくて30過ぎまで、といった現状に鑑みると、少なくとも10年程度の「延命」が可能です。


その年齢になる前に人気が出なくて消えていく人がほとんどだとは思いますし、それを言ったら俳優としてやっていくのと大差ないのかもしれません。しかし、声優にはもうひとつ利点があります。
それは「追いやすさ」です。

これは最近自分自身が俳優を追っかけて実感していることですが、俳優を追うにはかなりの「お金・時間・気合い」が必要です。小劇場でやるような舞台は円盤になることも少なく、その日その時に見に行かなければ俳優の活躍を目にすることはできません。
2.5次元舞台から入った人のうち、いったいどれだけの人がそこまでの労力を俳優自身に割けるでしょうか。
好きな作品から推しが卒業してしまうのに合わせて一緒に卒業、その後追っかけというパターンは少なくないでしょうが、多くもないと思います。
また、そこまでして次に注目するのは好きな作品の中でも一推し、せいぜい二推しまででしょう。
「好きな作品に出てたけどそこまで推してはなかった○○くんが出ている小劇場の舞台があるらしい、見に行こうかな」とまでなる人は相当な観劇好きでしょう。

では、声優ではどうでしょう。
「好きな作品に出ていたけどそこまで推してはなかった○○くんが今度のアニメに出るらしい、見てみようかな」くらいには比較的簡単に気持ちが動くのではないでしょうか。そこには圧倒的な「お金・時間・気合い」の必要量の差があります。
そもそも、声優であれ俳優であれ、テレビでの露出は簡単に目に入りますからね。
単純に、声優は2.5次元舞台の客層の目に入りやすい、ということです。



で、つまり何が言いたかったかというと。
いろんなしがらみはあるでしょうが、わたしの推しが「イケメン俳優」として生き残っていければいいなぁ…という話でした。

背景のわからない人を好きになる恐怖

 

上記の記事を読んで、わたしの漠然とした不安はこれだったのか、と思いました。

応援している人が将来なにになりたいのか、それがわからないと不安になる。ある日突然、もっとやりたいことがあるからと目の前から消えてしまうかもしれないから。

 

今までそのような不安を感じたことはありませんでした。

わたしが10年来応援しているAさんは、物心ついた頃から歌手になるのが夢で、今もひたすらその夢を実現させています。ずっと夢だったのだと、何度も何度もファンに話してくれます。そして、今の状況に満足しておらず、もっと良いものを、と考えていることもいつも伝えてくれます。
この人は、なにか事務所の都合か自分の体調などに問題が起きない限りは死ぬまで歌手を続けてくれるのだろう、と安心して応援することができます。

 

でも、最近好きになったBさんはあまりそう言ったことを話さない人です。

わたしが知らないだけで、どこかで話しているのかもしれません。昔からのファンの間では常識なのかもしれません。でも、わたしは知らないのです。

彼がずっと演技で食べていくつもりなのか、その覚悟があるのか、その見通しがあるのか、それとももっと別の目標があるのか、最近好きになったばかりのわたしには知るすべがありません。
ブログも舞台の千秋楽後に全体の感想など書くくらいですし…。
演技に対して真摯に向き合い、常に真剣であることはことばの端々からわかります。でもそれだけなんです。その仕事を大事にしている、ということと、この仕事が本当にやりたいことである、ということは必ずしもイコールではないのです。

それがこんなに不安だとは思いませんでした。
 熱をあげて応援している人が、明日も変わらずその場に居続けるということは、奇跡のようなことです。
できるだけ長く、願わくはずっと変わらずに、わたしにあなたの夢を見せ続けてください。

「推し」という違和感

今までの記事では便宜的に「推し」という言葉を使ってきましたが、正直自分の好きな人を「推し」と表現するのには違和感があります。

推しはたぶん、アイドルグループなどから輸入されてきた言葉で、どうしても「複数人の中から選ぶならこの人!」みたいなニュアンスを感じるんですよね。

まあ確かに複数いる人の中からその人を選んでいることは事実なんですけど。でも、アイドルグループのようにいつも比較対象が一定ではなくて、それこそ不特定多数の、星の数ほどいる人間の中からその人を選んでいるわけです。それを「推し」というのはなんだかな…と思ってしまいます。

 

まあ、じゃあなんというんだという話になるわけですが。わたしはやっぱり、「○○さんのファン」というのが一番しっくりくる気がするんですよねぇ。

特に10年近く追っかけてる人に対しては、ファン以外に上手く表せる言葉がありません。たぶんわたしが「推し」という言葉を知る前から「推している」からだと思います。

それに対して、最近好きになった俳優さんに対しては「推し」と言ってもそこまで違和感はない。心の中で、10年近く追っかけてる人と比較しているのかもしれません。

 

じゃあその本人のことはなんというのか。まあ名前で言うしかないですよね、推しくんとかに当たる言葉はないですから。

若手俳優ファンの方々は本人の名前を出さない方が多いので、どうにも表現しにくくて推し、という言葉に落ち着いているのでしょう。

 

 

なにかいい言い方があればいいのですが…。

特に思い付かないので、これからは10年好きな人はAさん、最近好きになった人はBさんとでも呼ぼうかと思います。

ずっと推してきた人が一番じゃないかもしれないと思ったとき

わたしは、その人を推しはじめて10年ほどになる。
その人はアイドルのような歌手のような声優のような(知名度的には声優が一番上だと思うけど本人はシンガーソングライターを自称しているのでそこを尊重したいと思っている)人だ。
はじめはCDを買ったりしていただけだったのでオタクというほどではなかったが、年に1回必ずツアーに参加するようになり、1回のツアーに複数回参加するようになり、接触イベントに通うようになり、推しに顔を覚えてもらえるようになった。
わたしの青春はその人と共にあると言っても過言ではない。年数を数えるとき「何年生のときにあのツアーに行ったからあれは何年前」というカウントをしてしまうくらい。
部屋には常に2枚以上のポスターが貼ってあり、遊びに来る友人の間ではすっかり有名人。わたしがその人のイベントに行くと言うと、「彼氏とデート」と言われて冗談半分、暖かく見守られ、延々と気持ち悪いテンションで話す感想を聞いてもらっていた。

そんな「わたしのすべて」と言えるような人がもしかしたらイチオシではないのかもしれない、と感じてしまったのは、新しい推しができたからだ。

新しい推しは所謂若手俳優で(年齢的に若手とくくるのかは微妙だが)、2.5次元舞台に出ていたのがきっかけで知った。
その人はその作品でわたしが一番好きなキャラクターを演じており、はじめからかなり注目していた。
はじめはやはり二次元との差を感じて、そこはあのキャラならもっとこうだろう、ここはすごく似てるけどここは違う、なんて多少の不満もあった。
しかし、人となりもあって、1年間見続けた結果、かなり好きになっていたようだ。
(その人自体は作品に3年関わっていたが、わたしがド新規なため見ていたのは1年)

それを自覚したのは、その人がその作品を卒業する、と知ったとき。薄々感じてはいたが、ハッキリと次には出ないことが発表されて泣いた。そんなことで泣くなんて、自分でも信じられなかった。
別にその人が死んだわけではないし、もちろんキャラも死んでない。芸能界を引退したわけではないのだから今後も見ることはできる。
それでも、その人が演じるキャラクターがもう見られないのだと思ったら、数日の間はふと思い出して泣き出してしまうくらいにはショックだった。
ああ、こんなに好きになっていたのか、とはっきりと自覚した出来事だった。

それでも、本当にその人が好きなのか、ただその人が演じるキャラクターが好きなのかは自分でもよくわかっていなかった。
その時点で「その人=そのキャラ」で、わたしの中ではあまり区別がなかった。

わたしが本当に好きなのは人なのかキャラなのか、確かめるつもりでその人が出演するオリジナル舞台を見に行くことにした。
今までトキメキをくれたお礼のつもりで、少し高い良席を買った。


結果、わたしはその人が大好きになってしまったのだという事実を確認して帰ることになった。

舞台でキラキラと輝く彼を思い出しては胸が高鳴った。
帰りの電車の中でファンクラブの入会手続きをした。

誰かを推す理由は「トキメキ」だけではないと思う。でも、トキメキが大部分を占めるのも事実ではないだろうか。
元々の推しに対して、わたしは今でもときめいているのだろうか?少なくとも今、舞台を思い出したときのトキメキと、前回ツアーに行ったときのトキメキを比べてみたら…。
最近、接触イベントにも緊張しなくなってきている。正直、自分のその心境の変化が悲しい。
推しとはいつまでも初めて会ったときの緊張感を持って接したいと思っていたから。

だらだらと書いてしまったが、まだ自分の心がよくわからない。
たぶん、次のイベントが発表されたとき、自分がどの程度行きたいと思うのか、それで計れるのではないかと思う。


推し変する人はどのような心境なんだろうか。
わたしは10年間同じ人を見続けてしまったために、他の人に自分の気持ちがいってしまうのがものすごく怖い。
怖いから、という理由で推しにしがみつくのも嫌だから、しっかりと自分と向き合って、今後を考えていきたいと思う。

ファンサうちわとわたし

前回のファンサについてのブログで作っていたファンサうちわ、先日使用してきました。

結論から言えば、「ファンサうちわを持っていく人の気持ちはわかったけど自分には向いていない」です。

ちょっとしたコンサートに参加してきたのですが、座席が段差になっていて前とあまり被らない構造だったことと、前から5列目だったこともあり、推しにうちわを見つけてもらえました。(たぶん)
わたしのうちわを見つめて、にこっと笑ってくれたのです。(たぶん)
肝心のファンサ側を向けていなかったので確証はありません…見せていたのは推しの名前側。でもこのうちわを持っていたからこっちに目線くれたのかな?と思える感じには長めに見てくれたと思います。

「見てくれた」と感じたときには胸が高鳴りました。推しと目線が合っているなんて、なんだか夢のようです。
しかし、わたしが「うちわっていい!」と思ったのはその目があったと感じていたときだけでした。
やっぱりうちわを持っているのにこっちを見てくれない、と感じてしまって何となく辛い。
さらに、わたしは推しは一応いるものの、箱推しというか、みんなそれぞれに好きなところがあるので、参加者全員を満遍なく見たいんです。
でも、うちわを持っていると、推ししか見てはいけない気分になってくる。
推しがうちわに反応してくれたときに、わたしが別の人を見ていたら…。
また逆に推しではない人がわたしをたまたま見てくれたとき、わたしが別の人の名前が書かれたうちわを持っていたら…。一目で自分のファンじゃないと気付いてしまいますよね。


なんだかうちわを持っていると、そういう余計なことを考えてしまって純粋に楽しむことができませんでした。
たぶんわたしみたいなのは考えすぎで、推しのうちわ持ちながら別の人を見たっていいんでしょう。
でもねー気になっちゃうんだよねー。

そもそも、「見られたい」と思うこと自体疲れます。
わたしは見に行ってるのであって、見られに行ってるわけじゃないんです。
向こうには一個人のことなど気にせず、意識せず、ファン全体を見ていてほしいなと改めて感じました。

アイドルとファンとファンサービス

ファンサと言って真っ先に思い浮かぶのは、ジャニーズじゃないでしょうか。
ジャニーズでは「ファンサうちわ」はとてもポピュラーなものだし、最近はほかのアイドルでも珍しくなくなったような気がします。
今回は、ファンサービス(ファンサ)について、思うことを好き勝手書いていきます。




そもそもわたしがファンサについて気になりはじめたのは、ファンサうちわが作りたくて色々調べたことがきっかけでした。
断っておくとわたしはジャニーズのファンではありませんし、ジャニーズのコンサートに行ったことはありません。うちわはまったく別のコンサートに持っていくために作成しました。



いろいろなうちわを参考に見ていて気になったのが「ファンサうちわで本当にファンサってもらえるの?」ということ。
自分が参加するコンサートとは切り離して、純粋にジャニーズのファンサ事情が気になって調べました。
だって、ジャニーズだよ?あの、ドームとかでコンサートしちゃうジャニーズだよ?うちわなんて見えるの?



結論からいうと、アイドルにもよりますがファンサは結構してもらえるみたいですね。
あんまり遠いと難しいみたいですが、アイドルたちはがんばって遠くの方の名前うちわも見つけて指差したり手を振ったりしてくれるんだとか。
正直ビックリしました。
でもまあ、してくれなければ誰もうちわなんて作っていかないか。
どんなに人気が出ても地道なファンサービスを忘れない、その心意気がまたファンを引き付けるのかもしれません。






で、本題ですが。
わたしはこの「ファンサービス」がちょっと苦手です。
誤解覚悟で言いますけど、ジャニーズのようなファンサービスはファンの格差(溝?)を生むんじゃないかと思ってしまいます。
理想だけでいえば、ファンサービスは「0か100か」であるべきだと考えています。



調べていたら「自担が他のファンにファンサしていて嫉妬した」とか、「隣の同担にはファンサしたのに自分は無視された」とか、そんな話が山ほど出てきました。
なんだかそういうことを思ってしまうのは辛いなって。
そういう思いを抱いてしまうからこそ「同担拒否」が生まれてしまうのではないかなーと思うのです。
みんな同じものが好きなんだから仲良くしたらいいのに。
ファンとしてそういう風に思ってしまうのも辛いだろうし、そもそもアイドル本人達が辛いでしょう。ファンに喜んでもらおうとサービスしてるのに、それが原因でファンが負の感情を抱いてしまうなんて。



でも、これはある程度はしょうがないものだということもわかっています。
ジャニーズのように規模が大きくて、握手会などの個人での接触がないに等しい状態では、ファンサが唯一のふれあいの場といえるのかもしれません。
全員が、ファンサをもらえるかどうかは運だとわりきって楽しんでいられればいいのでしょうね。
ファンサをもらえなかったからといって、アイドルに対して負の感情をぶつけるような行為(ファンレターなどで訴えるとかネットに書き込むとか)はしてほしくないなぁと思うのです。なによりアイドル本人が見たら傷つくだろうから。



さて、話は変わりますがなにもファンサは大規模なアイドルだけの話ではありません。
むしろ、小規模の、マイナーなアイドルたちの方がファンサは過剰になる傾向があるような気がします。
ファンを「釣る」必要があるので。




以前、マイナー歌手(アイドル)数組が一緒にやるライブを見に行く機会がありました。小さなフェスのようなものです。
このとき、ある方のファンサがすごかった。
最前列の人の頭を撫でる、頻繁に柵前まで降りていく、ファンの持ち物(帽子や眼鏡など)を取って身に付ける、などなど…。
このような過剰なファンサを目撃したのははじめてでした。
正直、ちょっと気持ち悪い、異常だ、と感じてしまいました。
その歌手のファンは全体の5分の1程度、決して多くはありませんでしたが、ファンの自己主張(ライブ中の動作や奇抜な格好など)がすごくてものすごく目立っていました。
(その後調べてみると、そのファンサが過剰なアイドルに誰が気に入られてるとか誰は嫌われているとか、そう言った話が山ほど出てきました。)



サービスをする相手を選んでいる、ということにおいては、ジャニーズもこのマイナー歌手も、同じです。
わたしからすれば、ジャニーズのファンサも、このマイナー歌手のファンサを見たときのような「気持ち悪さ」を感じてしまうのです。



その点、AKBのような48系のアイドルはCDを買いさえすれば必ず握手という「ファンサービス」がもらえます。アイドル側から「選ばれる」ことはありません。
握手会や、AKB商法と言われるCDの売り方には批判も多くありますが、ファンサとしては、こちらのほうが理想なのではないかと思ってしまいます。
言わば、48系のファンサは「100」なのです。



ジャニーズでも握手会をやれ、と行っているわけではありません。今の人気を見れば、握手会など到底無理なことは想像できます。
わたしが言いたいのは、「100」ができないなら「0」にすればいいということです。
特定のファンだけを選んでするファンサはやめて、全体に向けたサービスのみにする。そうすれば、個人での触れあいはなくなってしまいますが、嫉妬はなくなる。
今のジャニーズなどのアイドルの状態は「10」、もしくは母数を考えれば「1」と言ってもいいかもしれませんね。それでは「1」に嫉妬がいってしまうのは必然です。



ファンサによるいざこざ、嫉妬の愛憎劇は、アイドルの規模の大小にかかわらずアイドルが特定のファンを「選んで」ファンサをする限り存在するものなのかもしれません。
ファンとして、他のファンのことなど気にせずに純粋にアイドルのことだけを考えて応援できるのは、ファンサービスが「0か100か」の時なのではないかと思います。