好きなら全力投球

アイドルとか舞台とかオタクとかのはなし

降りる日のことを夢想する


いろんな方のプレイリスト、とても楽しく見てました。
みなさんいろんな曲知っててすごいなーと。
わたしもやってみたい!と思ったものの、Aさんは自分で曲を作っている人だし、Bさんに関してはそんなことを考えたことがなくて思い付きませんでした。
そしてここまで時期をはずすという。すっかりプレイリストの話は流れてしまいましたねー。

今回は推しプレイリストではないですが、胸に刺さって抜けなくなっている曲をひとつ。

Love together!

Love together!

これはBerryz工房の解散前ラストシングルでした。
わたしはBerryz工房のファンではありませんでしたし、ももちが所属してるハロプロのグループ、という程度の知識しかありませんでした。
でも「普通、アイドル10年やってらんないでしょ!?」を聴いてから、すごい人たちだなぁと思ってなんとなく曲を聞くようになりました。

この曲は、Berryz工房からファンへのストレートな別れの歌です。
Berryz工房の歴史なんてほとんど知らないわたしですら、PV見てると涙が出てきます。
そして、これを推しに置き換えるとつらい。
もしある日急に「わがままかな こんな決心」なんて言われたら…。


redempty.hatenablog.com

過去の記事でも書きましたが、推しがいつ芸能界からいなくなってしまうかなんてわかりませんからね。某国民的アイドルグループも解散してしまいましたし。

でも、本当に胸に刺さるのは、これを自分側から推しに言うことになることを考えたときです。
推しを降りるか悩んでいる人にはぜひ聞いていただきたい。降りた経験がある人も。

迷ったのは 真実だけど
こんなに悩んだのは 本当に初めてだよ


なんで推しはじめたばかりなのに降りるときのことを考えてしまうのかというと、それはわたしの興味の移り変わりのスパンが短めだからです。
供給が多いジャンルにハマった場合、長くて一年程度で飽きがきてしまって、次にハマるものが出てきてしまうんですよね。
Aさんに関しては10年ファンやってますが、これは供給がそこまで多くないということが大きい気がします。
盛り上がっているのは1年のうち3か月くらいで、いい具合に供給がない休止期間があるんですよね。
あんまりにも多量の供給で攻められるとついていけなくなってしまうというか。


Bさんにはこの2ヶ月半で10通近くファンレターを書きました。(書きすぎ)
その中で、意図して書かないようにしていることばがあります。
それは「これからもずっと応援しています」。

「ずっと」なんて絶対に言えない。もしかしたら1ヶ月後にはなにか別のものに熱を上げているかもしれない。そんな不安が常にあります。
今までは対象が2次元、まはた2.5次元だったからよかったんです。
2次元なら対象に感情はないから次のものに移ってもわからない。2.5次元は対象は人ではあるものの、巨体なコンテンツなのでひとりくらいファンが減っても気付かれない。
でもBさんはファンとの距離がかなり近い若手俳優です。
小劇場で最前で見ていたのもバレてたし、手紙の総数もきっとそこまで多くはないから短期間に10通も出せば名前もバレる。*1

わたしが人生で「人」にハマったのはAさんだけで、十年来飽きていません。
だから今まで「人」に飽きた経験がなく、「人に飽きる」ということに一種の恐怖を感じています。
認知されてしまったから余計に。
ただ熱を上げる対象として一方的に見ていたものが、認知された瞬間から相互の関係になってしまうんですよね。ほんの小さなつながりであったとしても、人間関係ができてしまった人に対して、一方的に「飽きる」って考えるだけで怖くないですか?
認知されてなくても、対象が人であるというだけで、自分の勝手な感情であるはずの「飽き」に罪悪感を覚えてしまいます。


若手俳優なんてきっと一方的に飽きられることは日常茶飯事なんでしょうけど。
わざわざ気に留められることもないかもしれないんですけど。
「いる」のはわかっても「いない」っていうのはそこまで気付かれないかもしれませんけど。
それでも、どうでもいいことを考えすぎて悩んでしまう面倒なオタクなんです。

時が過ぎ それぞれの
道に向かって行く
だからこそ この瞬間
宝物だよ


忘れないわ 今日までの
素敵なこの道を
好きよ 好き 大好き
また会えるよね

夢中になって一切の情熱を傾けられることって、幸せなことです。熱が覚めてしまってからは二度とその幸せは味わうことができません。
なんであんなに熱中してたんだろう、とあとから不思議に思ってしまうと同時に、同じ熱をもう持てなくなってしまったことに気付いて寂しくなります。
だからこそ、後悔のないように今に情熱をかけます。
真摯に向き合って、そのときの精一杯で情熱を傾けたら、きっとあとから振り返っても「素敵なこの道」って言える気がします。

*1:先日一対一で話す機会があり、緊張でなにも言えずにいたら向こうから「この間の舞台いたよね?」的なことを言われました。顔を覚える早さにビビっていたらその後名前まで聞かれた。自分からはなにも言ってないのに…!こいつ釣りにかかってるな…!?というのがわかりつつも単純なので舞い上がりました。若手俳優ってみんなこんな感じなの…?

後ろの客がうるさかった話

刀ミュ、真剣乱舞祭行ってきました。
刀ミュは阿津賀志山異聞はDVDで、幕末天狼傳はライブビューイングで見ていました。
どちらも生ではないのでなんとも言えないのですが、正直歌唱力に不安ありまくりな作品でした。ライブパート全部削っていいから本編の歌のクオリティ上げてくれ…と何度思ったことか。
キャストの皆さんは本当にキャラクターそのものだし、問題なのは詰め込み過ぎて稽古足りてないんじゃ?って点なので、キャストは悪くない。
まあ今回はそんなことが言いたいわけではないのでこのあたりにしておきます。


2階席でステージからは遠かったものの、通路前だったので視界は良好。
ライブと芝居が交互に繰り広げられ、ライブを楽しみながらもあくまで刀剣男士として演じているのだと感じられて、世界観が面白かったです。
小狐丸の腹筋が素晴らしかった。
ステージの内容としては大満足でした。


ただ、わたしの真後ろの客がうるさすぎた。
別に刀ミュだからという話ではありません。最近のどの現場でも感じることですが、今回は本当に頭にくるレベルでうるさかったので一度書いておこうと思い立ちました。


そもそも、わたしはステージを見ながら悲鳴を上げ続ける人の神経が理解できません。
不意打ちでいろいろやられて悲鳴を上げてしまうのは分からなくはないんですよ。そういう時はあると思います。
でも、歌って踊っているのを見ながら5秒と置かず「キャーキャー」とどっから出してるのかわからない頭に響く甲高い悲鳴を上げ続ける意味ってなんですか?
百歩譲って、ライブパートはいいとしましょう。自由に盛り上がれる場面ですしね。
でも芝居のパートになってキャストがしゃべっている一言ずつに「キャー」はどうなんですかね?今回の真後ろの方はもっと酷くて、悲鳴だけではなく「かっこいいー!」という歓声まで芝居中に大声で叫んでました。
それ、叫ばないといけないことですか?
あの人は歌やセリフは聞こえていたんでしょうか?いや、聞こえてはいたんでしょうね、セリフに対して「かっこいい」とか言ってたわけですから。
わたしはその悲鳴のせいで歌もセリフもかなり聞きとりにくかったですけどね。



矛盾するようですが、わたしはライブでの歓声は上げてなんぼだと思います。
どんなに自分が「楽しい」と思っていても、思っているだけでは演者には伝わらない。楽しそうな表情をしても客席側は暗いから、演者からは見えない。
「楽しんでいるぞ」ということを伝えるためには歓声と拍手が一番だと思って参加してきました。
あくまで歓声は、演者のパフォーマンスを受け取った上での、こちらからの楽しさを表現する手段。だから、歌っている最中に合いの手など以外で声を出す必要性がわからないんですよね。パフォーマンス受け取る気ある?っていう。
目で受け取れたら満足なんですかね。わたしは耳からも受け取りたいんですよ。



楽しみ方は人それぞれですけど、それぞれの楽しみ方を邪魔しない範囲で楽しむ、なんて、ごく普通の事ではないですか?
自分の半径1メートル以内に何人も他の客がいるんだから、必要ない雑音は極力抑えるのがマナーではないかと思ってました。
もちろんライブだけではなく舞台や映画などもそうです。大勢と一緒に見ているということを少しは考慮してほしい。



こんなことを書くと「うるせえ好きに楽しませろや!」ってことになるんでしょうかねぇ。「文句があるなら現場に行かずに映像で見ろ!」って?
自分だけがその場にいるわけではないなんて、考えるまでもなくわかることだと思うのですが。



12/21追記
真剣乱舞祭千秋楽のライビュに行って来ました。
周りがうるさくない中で見ることができてとても楽しかったです。

「見られる」ことを考える

キャパが200人程度の劇場に行くことが増えました。Bさんがよく出るようになったので。
200人、下手をすると100人ほどの規模ではどの席からもよく舞台が見えますよね。一番前なんてものすごく近い。近くで推しの舞台が見られるのはすばらしいことです。
しかし、近いがゆえに発生する問題、それは「見られる」こと。
こちらからよーく見えるということは、向こうからだって見えるわけです。もちろん、演技をしている最中には見えていても「見ない」ことがほとんどでしょうけど。それでもどうしたって目に入ってしまうし、カーテンコールでは演者も客を見ています。


観劇に行くに際して、ある程度身だしなみを整えるのは人としてのマナーかとは思います。
でも、一般の人の目に入るときの身だしなみと、推しの目に入るかもしれないときの身だしなみって気合いの入れ方がどうしても違ってきますよね?


わたしは普段観劇に行くときは、一般の人に見られるくらいの気合いで行きたいんです。
ただ、キャパが小さいとどうしても推しの目も意識してしまいます。なんでただ観に行くだけなのにこんなに気を使わなきゃいけないんだ…と気疲れしてしまうこともあります。
わたしはそこまでおしゃれができる方ではないので、見られると思うとめちゃめちゃ気を使うんです。
そっちに気を使うとなると、ただ舞台を楽しみにしたいのに、なんとなーく憂鬱になるんですよね。
向こうは絶対こちらの見た目なんて気に留めていないでしょうから、完全なる自己満なわけですが。


先日友人とBさんの話をしていたときに「それだけ行ってればもう覚えられたんじゃない?」と言われて、なんとなくひやっとしました。
確かに短期間にかなりの回数行きましたが、相対したのは、マチソワ間にたまたまエレベータホールでエンカウントしてしまった時に「楽しかったです」と言ったのと、別の舞台で見送りに出てきていたときになにも言えずに会釈した2回だけ。
もちろん、覚えられているなんてこれっぽっちも思っていません*1。でも、ただ観に行ってるだけでも覚えられてしまう可能性ってあるんだな、と気付かされました。


認知感やファンサうちわのエントリーでも書きましたが、わたしは「見られたいと思いたくない」んです。
1000人くらい入るようなところならそもそも目に入るわけがないので気にしなくてすみます。でも、見られる可能性があると途端に気になる。そして、気にしている自分に気付いてうんざりする、という負の流れができてしまうわけです。


話は少し逸れますが、似たような状況に「客席降りのある舞台での通路席」があります。
客席降りのある舞台での通路席の人気は言わずもがな。通路に面しているかひと席内側に入るかでは雲泥の差があります(と、わたしは思っています)。
でも、「見ること」だけをかんがえたら、通路席ってそこまで良席ってわけではないですよね。真ん中より端になるとこがほとんどですし*2
でも、客席降りがあるから通路かどうかで一喜一憂してしまう。そして一喜一憂している自分に気付いて…という流れ。


純粋にその作品を見ることだけに集中していたいのに、役者との距離が近すぎると余計なことを考えてしまいます。
Bさんに関しては本当に自意識過剰になってしまってるみたいです。


なんでこんなに「見られる」って気にしているかというと、Bさんの舞台で最前のほぼセンターを2日連続取ってしまったから。
1日ならまだしも、ほぼ同じ場所に2日連続いるとか……と、最前で見ることができる楽しみよりもなんだか申し訳なさが込み上げてくるんですよね…。
まあでもたぶん考えすぎなんで、できるだけ気にしないようにして、舞台を楽しんでこようとは思っています。

*1: なーんてエントリーを作成中にBさんとちゃんと接触と呼べるレベルの接触があり、 そこで顔を覚えられていたことがわかったのですが、それはまたちょっと落ち着いてから書きます…。まだ本格的に追っかけはじめて3ヶ月経ってないよ…認知早いよ……。

*2:真横を通る推しを「見る」となると良席なのかもしれませんが、それも客席降りがなければ通らないですし。

推しが2.5次元に出るともやる話

特にその俳優さんのことを意識していないときは何とも思わないのに、その人のファンになると途端に2.5次元舞台に出ることにもやるのはなぜか。

俳優ファンになるまでは、他の人が「早く2.5次元卒業してほしい」っていってる意味がわからなかったんですよね。
小劇場の舞台より、明らかに2.5次元舞台のほうが注目されているし、知名度は上がるのに、なぜそんなに嫌がるんだろう?って。


わたしはBさんのことを2.5次元舞台で知りました。そして、他の舞台(その作品以外の2.5次元、オリジナル舞台含む)を見たことがないのにBさんのファンになりました。

そんなわたしが、Bさんには今後2.5次元に出てほしくないなぁと思うのはなぜか。
2.5次元舞台を見て好きになったくせに何を言っているんだと思われるかもしれません。
自分でもそう思う時があります。今でもBさんが好きなのか、キャラクターが好きだっただけなのか、悩むときがあります。Bさんがやっていたのがその作品でイチオシのキャラだったせいもあって、Bさんにそのキャラを重ねて見ているだけではないのかと自問自答を繰り返す日々です。
2.5次元から舞台に入って、その後俳優のファンになったひとあるあるな気がするのですが、これについてはまた別の機会に。

念のため言っておくと、わたしは今でも2.5次元舞台が大好きです。むしろBさんのファンになってからの方が色々な作品を見に行くようになりました。
ただ、出演している役者さんについて、よく知らない作品の方がより純粋に楽しめるなぁと感じますね。
人を知ってしまうと、どうしてもキャラクターではなくその人として見てしまうからだと思います。


2.5次元については、ユリイカの特集で「2次元+0.5」なのか、「3次元-0.5」なのかという話題がありましたが、わたしは「3次元-0.5」だと思っています。
2次元舞台は、いかに違和感なくキャラクターを再現するのかが重要です。
3次元の、人間である俳優が、いかにキャラクターによせるのか。その出来によって、観客が物語に入り込めるかどうかが決まるのではないでしょうか。


わたしは2.5次元を純粋に楽しめたとき、演じている最中の役者さんのことはキャラクターとしてしか見られなくなります。
ときどき、生き写しかと思うほどそっくりな役者さんもいらっしゃいますよね。もともと似たところのある人を選んできているとは思いますが、「完全に一致」というほどに自分を作り込み、キャラクターになりきっているのは俳優自信です。

だから、「キャラクターにそっくりでした」というのは最高の褒め言葉だと思うんです。精一杯そのキャラを演じるために研究して、努力しているのですから。
時と場合を考えれば、ですが。


AKB48の経済学

AKB48の経済学

 女優の場合もキャリアの初期、特に子役で当ててしまったりすると、その役のイメージからなかなか逃れられずに足を引っ張られてしまうケースがあります。
 日本でいえば「家なき子」が大ヒットした安達祐実とか、「ホーム・アローン」のマコーレー・カルキンなどがそうでした。ショーン・コネリーなども、「007」シリーズのジェームズ・ボンドのイメージが強すぎて苦労したようです。
(中略)
 その意味ではアイドルは子役に近いものがあって、ごく若いうちに人気になってしまうために、人間性ではなく、記号として消費されやすい面があります。
( AKB48の経済学 朝日新聞出版 )

これは、女性アイドルについて論じたものですが、俳優についても同じことが言えると思います。
この場合はキャラクターという記号として消費されてしまうということです。

そんなことを言い出したら、役者はどんな舞台でも常に「役」というキャラクターが存在しているものではないか、と思われる方もいるかもしれません。
しかし、2.5次元ではその他の舞台に比べてキャラクターの存在が大きすぎるのです。

日常生活やその他イベントでもキャラクターらしさやキャラクターとしての話題を求められ、ストレートの舞台に出てもキャラクターとの共通点を探され、客の感想にもキャラクターの影があり…。
それは本当にその人のファンと言えるのか?その人のことをキャラクターとしてしか見ていないのではないか?ともやもやしてしまいます。

別に、その人の演じる役を、2.5次元のキャラクターしか見たことがなかったとしても、それでファンになったっていいと思うんですよ。わたしもそうですし。
その人のその役がすごく好きだったからと言って、その後の出演作まで追わなければいけない道理はありません。
ひとつの作品の思い出を大事にしていても、それはそれで立派なファンだと思います。

わたしが一番もやるのは、それを本人に伝えてしまうことです。
ツイッターで作品にまったく関係ない投稿にたいしてキャラクターのネタでリプライしたり、キャラクターらしさを求めているのを見るとものすごくもやもやします。

そのキャラクターはその人が演じた役のひとつでしかなくて、その人自身ではありません。
役に入れ込んでもらえるのは役者としていいことなのかもしれませんが、それがすべてだとは思ってほしくない。
その作品に対する感想以外の場で、キャラクターの名前を出してほしくない。
キャラクターとしてしか見ていないファンが増える気がして、推しが2.5次元に出るのはもやもやするのです。

全通することは偉いのか


舞台、コンサート、イベント。
全通する人、全通ではないけど複数回行く人、1回だけ行く人、全く行かない人(所謂茶の間)。そこに優劣があるのか。

まず、現場に行くか行かないか、というところが大きな分かれ目だと思います。
わたしは、茶の間と現場に行く人なら、現場に行く人の方がある意味で「偉い」と思っています。
余程大きなコンテンツでない限り、現場での人とお金の動きいかんによって、その後の出演や円盤化などが決まるからです。
そもそも、現場に行く人がいなければ茶の間は生まれません。茶の間になれるのは現場に行く人がいるからです。


では、全通する人と、現場には行くけど全通しない人では、どちらが偉いのか。
わたしは、全通する人は本当にすごいなと思います。そこまでのお金と時間を同じ舞台にかけられるのはすごいことです。
わたしの全通経験と言えば、Aさんのライブツアーが東京大阪名古屋の3公演しかなかったときに「少なくとも2回は行きたい、もう3公演しかないなら全部行ってしまえ!」という勢いでやった一度だけです。遠征とはいえ3公演くらいはどうってことないというか、これを全通にカウントしていいのか迷うようなレベルです。
舞台は、小さなものでも10公演近くやることが多いですよね。それを全通するとなると、そこにかけるお金と時間は膨大です。
それだけの情熱を同じ舞台にかけられることは尊敬しますし、ある意味「偉い」と思います。


でも、なんというか、「推しに対してお金と時間をかけること」が目的になっている人が一定数いるような気がしてしまうんですよね。
さらに、そういう人こそが高らかに茶の間を批判しているように思います。全くの主観ですが。
全通することが目的になっている人のことはどうしても好きになれません。


全通って「しよう!」というよりは「気がついたらしてしまっていた」という感じなのではないかなー。
以前、公演開始前に2公演分のチケットを取っていた舞台で、気がついたら最終的に8公演見てしまっていたことがありました。
一度見たらどうしてももっと見たくなり、もっともっとと思ううちにそんなことに。
今回また別の舞台で、始まる前から6公演分チケットを取ってしまっているものがあります。でも、それくらいは見たくなる、というかたぶん行ったらあと1公演くらいは増やしてしまう予感がする…。

と、こんな感じで、気がついたらチケット増えてる…気がついたら全部行ってた…みたいな全通なら、わたしはすごいと思うんですよ。



そもそも、趣味で、自分が見たくて行っているだけなんだから、偉いもなにもないんですよね。(結論)
「全通してる(または複数通ってる)自分偉い!」と思い始めたら、それはもはや趣味ではないんじゃないでしょうか。
自己肯定、自己アピールの道具として、観劇回数を使われるのは不快です。
わたしは正直、自分を省みるとき、こんなに通っちゃって…とちょっと自己嫌悪してしまいます。通ったこと自体に後悔はないし、行ってよかったと思うのですが、ここまで趣味にお金をかけてしまう自分にはちょっと嫌気が差します。


通った回数で偉さを決めたがるのは、やっぱり「推しへの貢献度」を気にする方が多いからなのでしょうね。
推しの名前で毎回チケットを取って、ブロマイドも複数買って、人気があるんだとアピールすること。それは確かに今後のお仕事へ繋がる重要なことだと思います。
はてブロを見るようになって、そういう考え方をする人がたくさんいるんだなぁと実感しています。
「趣味での観劇」というよりは「推しの応援」。
最近「応援スタンス」についての記事が流行っているのも「応援」している人が多いからなのでしょう。
応援が趣味である人もいると思いますが、ただの観劇趣味とはまた一線を画すような気がします。
わたしは応援と考えると絶対後からめんどうで嫌になってしまうと思うので、あくまで趣味だと言いたいです。


しかし、とても狭い若手俳優界隈。ある程度は応援しなければ今後も板の上の彼を見続けられるかわからないのが現状です。
わたしは趣味として彼を見続けたいので、自分の趣味を続けるために、気が向く限りは現場に行きます。
今のところは「応援しなきゃ!」というような義務感はなく、見たいという欲望に従っていたらそれが応援に繋がっているという状況です。
このハマったばかりの激しい熱が落ち着いたとき、わたしはどれくらい現場に行っているのでしょうか。
願わくは、いつまでも趣味だと言えるような熱を彼に対して持ち続けたいですね。


舞台の楽しみ方は人それぞれ。
全通は偉いと思っていても、それは個人の価値観で、誰もが認める絶対的な偉さではありません。
思うのは自由ですが、アピールとか、他への批判をしないでもらえたらいいなぁと思います。

わたしの面倒な認知観―「認知されたい」と思いたくない―

認知については、いろんな方がいろんな見方で書かれていて、とても面白いです。
認知についてはいろいろ思うところがあるのですが、この面倒くさい自分の胸のうちを書いて整理しておこうと思います。


まずはじめに、認知されたい派かされなくない派かですが、わたしは「認知されたいと思いたくないけど認知されると嬉しい派」です。
実に面倒くさい。

認知を求めて行動するのは大嫌いです。自分が相手に「見られたい」と思って行動していると自覚するとものすごく不快になり後悔します。
自分はあくまで舞台上での、作られたアイドル(偶像)としての彼が好きだから応援しているのであって、ただのイケメンだから好きになったわけじゃない!という変な自負が働いてしまいます。
だから、寝る間際のベッドでの自撮りを見て、「かっこいい、付き合いたい」とか思っちゃう自分をひたすら後悔します。自分はリア恋じゃない、演技が、歌が、ダンスが好きなの!と言い聞かせています。
面倒くさい。

この面倒くささを実感したのは、以前の記事でも書いた「ファンサうちわ」のせいです。
はじめて使ったファンサうちわ。本当に面倒で苦手です。
「見たい<見られたい」になっているのを視覚的に突きつけられました。

これは自分に対する言い訳なので、他の人が認知を求めているのはそこまで不快なわけではないです。
度を過ぎたものには嫌悪感がありますが。
あくまで「認知を求めてしまう自分」が嫌なのです。

そもそも、面倒くさいわたしがいやだいやだと思いながらリア恋しているのが最近推し始めたBさんです。
もしBさんと付き合えるなら付き合いたい。でもBさんがファンと付き合うような人だったらいやだ、という酷い矛盾を抱えております。


今までこの面倒な認知感を自覚せずに生きてこれたのは、10年来ファンをしているAさんの対応のおかけです。
まず、わたしはAさんに認知されています。
どこからが「認知」かというのはあやふやなところですが、とりあえず握手会に行って「いつもありがとう」「また来てくれたんだ」といったような、「よく来る奴」という認識をされています。名前と顔はたぶん一致していません。名乗らないし。
それでも、はじめて「いつもありがとう」と言われたときは衝撃でした。「この人わたしのことわかってる!?」とものすごく驚きました。
しかしまあ、それも当然なんです。
はじめて言われたのはたぶん握手会などにコンスタントに参加するようになってから5年ほどたった頃でしたし、むしろわたしだってよく来るファンの顔、50人くらいは覚えていましたから。短い間とはいえ、一対一で向き合っている彼がその50人程度の顔を覚えるのはそう難しいことではないと思います。というかたぶん顔だけなら150人くらいは覚えてるんじゃないかな、あの人。

参考に書いておくと、その人の接触イベントはCD発売などのタイミングで、1作品で5回くらい。それが年に2作品くらい。その他2年に1度くらいファンクラブイベントツアーがあります。
毎回200人程度が参加、毎回参加する人が50人くらい、毎回ではないがまあまあ参加する人100人くらい、その他新規やきまぐれ50人、といったところです。体感ですが。

自分も周りのファンを覚えるくらいだから、覚えられて当然。
素直に、覚えてもらったことが嬉しかったです。こっちから覚えてもらうためのアクションはなにもしていませんから。ただただ、彼を見たいがために通っていた握手会やサイン会やインストアイベント。単純にわたしが彼を見ていた時間の副産物でしかありません。
そこからこじらせて「もっとわたしを見て!」とはなりません。

わたし以外にも大勢が認知されていることを知っていますし、Aさんは認知しているからと言ってライブで人を選んでファンサをしたりする人ではありません。
あくまで認知されていることによって、接触イベントでただの「ありがとう」ではなく、「“いつも”ありがとう」と言ってもらえるだけです。
新規に対しての優越感はなくはないですが、古参が多過ぎて大した優越感にはなりません。
がっつり追っかけてる人が、わたしがファンになりたての頃からほとんど変動しないので、10年経つ今もなんとなく自分のことを古参と呼べずにいます。古参がずっと古参だから…。

Aさんに対しては本当に見られたいとは思わないんですよね。
Aさんにリア恋したことは1度もなかった……わけではないかもしれませんが、一過性の熱が落ち着いて、敬愛へと変わる頃(ファンになって2年くらい)まで接触イベントに参加したことがなかったのがよかったのかもしれません。
この穏やかな気持ちでファンでいられることがどれほど幸せなことだったか。
それがどうしてこうなった。

認知されるための行動はしたくないと思いながら、Bさんには毎回同じオリジナルの便箋で手紙を書いています。
ファンレターの話を皆さんが書いているのを読んで、便箋で覚えてもらう、という可能性を知ったからです。
これまではそんなこと微塵も考えたことがありませんでした。ファンレターはただ思いの丈をどうしても伝えたいから書くもの。思ったことさえ伝わればいい。
もちろん今もそう思っていますが、プラス、ほんの少しでも「わたし」が残ればいいなーなんて思ってしまいます。

出待ちをしている人を見ては、どうでもいい嫉妬心が生まれます。
わたしはどれだけリア恋でも疲れている彼の迷惑にはなりたくないので出待ちは絶対反対です。
でも、待てば会えるのも事実です。だからみんな待つんです。
わたしが帰ったそのあとで、出待ちをした誰かとBさんが話をしているかもしれない、と考えてはもやもやします。

リア恋故にファンイベントに参加するのも踏ん切りがつきません。
まだど新規だということもありますが、ファンイベントで他の人と話しているBさんを見て、嫉妬しないかが不安です。
嫉妬をする自分を想像するともやもやして気持ち悪いです。絶対嫉妬なんてしたくない。
それこそ認知されている人と楽しそうに話していたら、自分も認知されたい!と行動が加速するのではないかと思うといやになります。

Aさんの握手会では、自分の番が終わってから1時間以上ひたすら他の人と握手して話している姿を見ていても幸せを感じられるのに。

と、こんな感じでわたしの認知に対する考え方はとても面倒な自己矛盾をはらんでいます。
認知されたくないわけではない。しかし認知されるためにがんばって行動はしたくない。


純粋に俳優としての面だけを尊敬して、応援できれば幸せなのに。リア恋なんてしたくなかった。
もしくはリア恋しても気にせず突っ走れるような性格になりたかった。

「イケメン若手俳優」と称される彼らは、「若手」が取れても「イケメン俳優」としてやっていけるのだろうか

わたしは自分の推しがいったいどの程度の位置(地位?)にいるのか、よくわかりません。
本格デビューはテニミュだし、その後も2.5次元舞台や俗に言うイケメンわらわら舞台を中心に活動しているので、まあイケメン若手俳優と称して問題ないでしょう。
しかし、年齢も上がってきてそろそろ若手とは言えないし、2.5次元舞台も卒業なんじゃないかなぁ…という感じです。推しはじめて数ヶ月なので何も知りませんが。
最近は小劇場の舞台に多く出ているような印象的です。今のところ、次に2.5次元に出る予定はありません。



自分は2.5次元から入ったくせに、推しには今後2.5次元には出てほしくないなぁ…と思ったり。わがままですね。
でも、2.5次元を中心に活動している若手には、どうしても限界を感じてしまうのです。それは、同年代しか出ない舞台での成長の限界だったり、単純に年齢の限界だったり、知名度の限界だったり、いろんなものがあると思います。

やはりどうしても、一般人から見たら2.5次元はイロモノですもの。自分もどハマりする前は「お金をかけたコスプレ」程度に思っていました。
有名ではない若い人たちが、コスプレをして歌って踊る。多少歌や演技のクオリティは低くても、そこは「イケメン」ということで許されてしまう「幼稚な演劇」…そういった認識でした。
今はそれは誤解だったと思いますし(一部以前の認識どおりの舞台にがあることも事実ですが)2.5次元の楽しみは、他の舞台とはちょっと違った特殊なものがあることもわかるようになりました。

それでもやっぱりイロモノです。2.5次元出身と言ったときの世間の反応なんてそんなもんです。
テニミュ出身でもそれを打ち消すほどに知名度を上げて「えっ、テニミュに出てたの?!」と言われるような人もいますが、ごく一部です。

わたしは2.5次元舞台での経験を悪いものだと思っているわけではありません。大勢が心血を注いで作った作品に携わることが悪い経験なわけがありません。
2.5次元作品で好きなものもたくさんありますし、もし彼らがそれに関わったことを後悔していたら悲しいです。
それでも2.5次元に出ていた、というのはある種の偏見を含んだレッテルを貼られることと同義だと思っています。

似たような例で言えば、ニコ動出身の歌手や声優のようなものでしょうか。別にニコ動からブレイクしようが、オーディションなどを経てデビューしようが、売れてしまえば同じかもしれません。
それでも「ニコ動出身」という肩書きは後々までついて回ります。
わたしの知り合いに声優志望がいますが、「ほんの端役でも何でもいいからデビューできるまではニコ動には手を出さない」と言っていました。
まあ、売れる人はニコ動をやろうがやるまいが、そのうち売れるとは思いますが。



話を戻します。
2.5次元を中心としている若手は、そういったある種のレッテルを貼られた状態で、若手と呼べなくなったときにどうなっていくのでしょう。
そもそも、若手俳優界隈に詳しくないので若手のその後がどうなっていくのかをよく知りません。わたしが知っているごく一部は、ライダーものに出たり、声優をやったり、小劇場に出たり…そのくらいでしょうか。

中でも声優は最近増えてきたような気がします。これはある意味一番堅実な「延命処置」なのかもしれません。
もともと2.5次元を見る人は原作を好きな人が多くて、アニメが好きな人が多くて、声優に対しても好意的な人が多い、と言えるでしょう。
また、昨今の声優界もイケメンブームです。歌って踊れるイケメン声優がもてはやされる時代です。2.5次元出身ならもちろん歌って踊れるし、もともと顔で勝負していない声優の中に入ればほぼ間違いなくイケメン枠を勝ち取れます。
さらに、彼らにとって堅実な「延命処置」と言える一番の要因は、ピークの年齢です。
今の声優界でトップと言える人気を誇っているのは40歳前後の層でしょう。
2.5次元舞台の中心が10代から20代前半、よくて30過ぎまで、といった現状に鑑みると、少なくとも10年程度の「延命」が可能です。


その年齢になる前に人気が出なくて消えていく人がほとんどだとは思いますし、それを言ったら俳優としてやっていくのと大差ないのかもしれません。しかし、声優にはもうひとつ利点があります。
それは「追いやすさ」です。

これは最近自分自身が俳優を追っかけて実感していることですが、俳優を追うにはかなりの「お金・時間・気合い」が必要です。小劇場でやるような舞台は円盤になることも少なく、その日その時に見に行かなければ俳優の活躍を目にすることはできません。
2.5次元舞台から入った人のうち、いったいどれだけの人がそこまでの労力を俳優自身に割けるでしょうか。
好きな作品から推しが卒業してしまうのに合わせて一緒に卒業、その後追っかけというパターンは少なくないでしょうが、多くもないと思います。
また、そこまでして次に注目するのは好きな作品の中でも一推し、せいぜい二推しまででしょう。
「好きな作品に出てたけどそこまで推してはなかった○○くんが出ている小劇場の舞台があるらしい、見に行こうかな」とまでなる人は相当な観劇好きでしょう。

では、声優ではどうでしょう。
「好きな作品に出ていたけどそこまで推してはなかった○○くんが今度のアニメに出るらしい、見てみようかな」くらいには比較的簡単に気持ちが動くのではないでしょうか。そこには圧倒的な「お金・時間・気合い」の必要量の差があります。
そもそも、声優であれ俳優であれ、テレビでの露出は簡単に目に入りますからね。
単純に、声優は2.5次元舞台の客層の目に入りやすい、ということです。



で、つまり何が言いたかったかというと。
いろんなしがらみはあるでしょうが、わたしの推しが「イケメン俳優」として生き残っていければいいなぁ…という話でした。