好きなら全力投球

アイドルとか舞台とかオタクとかのはなし

推しが2.5次元に出るともやる話

特にその俳優さんのことを意識していないときは何とも思わないのに、その人のファンになると途端に2.5次元舞台に出ることにもやるのはなぜか。

俳優ファンになるまでは、他の人が「早く2.5次元卒業してほしい」っていってる意味がわからなかったんですよね。
小劇場の舞台より、明らかに2.5次元舞台のほうが注目されているし、知名度は上がるのに、なぜそんなに嫌がるんだろう?って。


わたしはBさんのことを2.5次元舞台で知りました。そして、他の舞台(その作品以外の2.5次元、オリジナル舞台含む)を見たことがないのにBさんのファンになりました。

そんなわたしが、Bさんには今後2.5次元に出てほしくないなぁと思うのはなぜか。
2.5次元舞台を見て好きになったくせに何を言っているんだと思われるかもしれません。
自分でもそう思う時があります。今でもBさんが好きなのか、キャラクターが好きだっただけなのか、悩むときがあります。Bさんがやっていたのがその作品でイチオシのキャラだったせいもあって、Bさんにそのキャラを重ねて見ているだけではないのかと自問自答を繰り返す日々です。
2.5次元から舞台に入って、その後俳優のファンになったひとあるあるな気がするのですが、これについてはまた別の機会に。

念のため言っておくと、わたしは今でも2.5次元舞台が大好きです。むしろBさんのファンになってからの方が色々な作品を見に行くようになりました。
ただ、出演している役者さんについて、よく知らない作品の方がより純粋に楽しめるなぁと感じますね。
人を知ってしまうと、どうしてもキャラクターではなくその人として見てしまうからだと思います。


2.5次元については、ユリイカの特集で「2次元+0.5」なのか、「3次元-0.5」なのかという話題がありましたが、わたしは「3次元-0.5」だと思っています。
2次元舞台は、いかに違和感なくキャラクターを再現するのかが重要です。
3次元の、人間である俳優が、いかにキャラクターによせるのか。その出来によって、観客が物語に入り込めるかどうかが決まるのではないでしょうか。


わたしは2.5次元を純粋に楽しめたとき、演じている最中の役者さんのことはキャラクターとしてしか見られなくなります。
ときどき、生き写しかと思うほどそっくりな役者さんもいらっしゃいますよね。もともと似たところのある人を選んできているとは思いますが、「完全に一致」というほどに自分を作り込み、キャラクターになりきっているのは俳優自信です。

だから、「キャラクターにそっくりでした」というのは最高の褒め言葉だと思うんです。精一杯そのキャラを演じるために研究して、努力しているのですから。
時と場合を考えれば、ですが。


AKB48の経済学

AKB48の経済学

 女優の場合もキャリアの初期、特に子役で当ててしまったりすると、その役のイメージからなかなか逃れられずに足を引っ張られてしまうケースがあります。
 日本でいえば「家なき子」が大ヒットした安達祐実とか、「ホーム・アローン」のマコーレー・カルキンなどがそうでした。ショーン・コネリーなども、「007」シリーズのジェームズ・ボンドのイメージが強すぎて苦労したようです。
(中略)
 その意味ではアイドルは子役に近いものがあって、ごく若いうちに人気になってしまうために、人間性ではなく、記号として消費されやすい面があります。
( AKB48の経済学 朝日新聞出版 )

これは、女性アイドルについて論じたものですが、俳優についても同じことが言えると思います。
この場合はキャラクターという記号として消費されてしまうということです。

そんなことを言い出したら、役者はどんな舞台でも常に「役」というキャラクターが存在しているものではないか、と思われる方もいるかもしれません。
しかし、2.5次元ではその他の舞台に比べてキャラクターの存在が大きすぎるのです。

日常生活やその他イベントでもキャラクターらしさやキャラクターとしての話題を求められ、ストレートの舞台に出てもキャラクターとの共通点を探され、客の感想にもキャラクターの影があり…。
それは本当にその人のファンと言えるのか?その人のことをキャラクターとしてしか見ていないのではないか?ともやもやしてしまいます。

別に、その人の演じる役を、2.5次元のキャラクターしか見たことがなかったとしても、それでファンになったっていいと思うんですよ。わたしもそうですし。
その人のその役がすごく好きだったからと言って、その後の出演作まで追わなければいけない道理はありません。
ひとつの作品の思い出を大事にしていても、それはそれで立派なファンだと思います。

わたしが一番もやるのは、それを本人に伝えてしまうことです。
ツイッターで作品にまったく関係ない投稿にたいしてキャラクターのネタでリプライしたり、キャラクターらしさを求めているのを見るとものすごくもやもやします。

そのキャラクターはその人が演じた役のひとつでしかなくて、その人自身ではありません。
役に入れ込んでもらえるのは役者としていいことなのかもしれませんが、それがすべてだとは思ってほしくない。
その作品に対する感想以外の場で、キャラクターの名前を出してほしくない。
キャラクターとしてしか見ていないファンが増える気がして、推しが2.5次元に出るのはもやもやするのです。

全通することは偉いのか


舞台、コンサート、イベント。
全通する人、全通ではないけど複数回行く人、1回だけ行く人、全く行かない人(所謂茶の間)。そこに優劣があるのか。

まず、現場に行くか行かないか、というところが大きな分かれ目だと思います。
わたしは、茶の間と現場に行く人なら、現場に行く人の方がある意味で「偉い」と思っています。
余程大きなコンテンツでない限り、現場での人とお金の動きいかんによって、その後の出演や円盤化などが決まるからです。
そもそも、現場に行く人がいなければ茶の間は生まれません。茶の間になれるのは現場に行く人がいるからです。


では、全通する人と、現場には行くけど全通しない人では、どちらが偉いのか。
わたしは、全通する人は本当にすごいなと思います。そこまでのお金と時間を同じ舞台にかけられるのはすごいことです。
わたしの全通経験と言えば、Aさんのライブツアーが東京大阪名古屋の3公演しかなかったときに「少なくとも2回は行きたい、もう3公演しかないなら全部行ってしまえ!」という勢いでやった一度だけです。遠征とはいえ3公演くらいはどうってことないというか、これを全通にカウントしていいのか迷うようなレベルです。
舞台は、小さなものでも10公演近くやることが多いですよね。それを全通するとなると、そこにかけるお金と時間は膨大です。
それだけの情熱を同じ舞台にかけられることは尊敬しますし、ある意味「偉い」と思います。


でも、なんというか、「推しに対してお金と時間をかけること」が目的になっている人が一定数いるような気がしてしまうんですよね。
さらに、そういう人こそが高らかに茶の間を批判しているように思います。全くの主観ですが。
全通することが目的になっている人のことはどうしても好きになれません。


全通って「しよう!」というよりは「気がついたらしてしまっていた」という感じなのではないかなー。
以前、公演開始前に2公演分のチケットを取っていた舞台で、気がついたら最終的に8公演見てしまっていたことがありました。
一度見たらどうしてももっと見たくなり、もっともっとと思ううちにそんなことに。
今回また別の舞台で、始まる前から6公演分チケットを取ってしまっているものがあります。でも、それくらいは見たくなる、というかたぶん行ったらあと1公演くらいは増やしてしまう予感がする…。

と、こんな感じで、気がついたらチケット増えてる…気がついたら全部行ってた…みたいな全通なら、わたしはすごいと思うんですよ。



そもそも、趣味で、自分が見たくて行っているだけなんだから、偉いもなにもないんですよね。(結論)
「全通してる(または複数通ってる)自分偉い!」と思い始めたら、それはもはや趣味ではないんじゃないでしょうか。
自己肯定、自己アピールの道具として、観劇回数を使われるのは不快です。
わたしは正直、自分を省みるとき、こんなに通っちゃって…とちょっと自己嫌悪してしまいます。通ったこと自体に後悔はないし、行ってよかったと思うのですが、ここまで趣味にお金をかけてしまう自分にはちょっと嫌気が差します。


通った回数で偉さを決めたがるのは、やっぱり「推しへの貢献度」を気にする方が多いからなのでしょうね。
推しの名前で毎回チケットを取って、ブロマイドも複数買って、人気があるんだとアピールすること。それは確かに今後のお仕事へ繋がる重要なことだと思います。
はてブロを見るようになって、そういう考え方をする人がたくさんいるんだなぁと実感しています。
「趣味での観劇」というよりは「推しの応援」。
最近「応援スタンス」についての記事が流行っているのも「応援」している人が多いからなのでしょう。
応援が趣味である人もいると思いますが、ただの観劇趣味とはまた一線を画すような気がします。
わたしは応援と考えると絶対後からめんどうで嫌になってしまうと思うので、あくまで趣味だと言いたいです。


しかし、とても狭い若手俳優界隈。ある程度は応援しなければ今後も板の上の彼を見続けられるかわからないのが現状です。
わたしは趣味として彼を見続けたいので、自分の趣味を続けるために、気が向く限りは現場に行きます。
今のところは「応援しなきゃ!」というような義務感はなく、見たいという欲望に従っていたらそれが応援に繋がっているという状況です。
このハマったばかりの激しい熱が落ち着いたとき、わたしはどれくらい現場に行っているのでしょうか。
願わくは、いつまでも趣味だと言えるような熱を彼に対して持ち続けたいですね。


舞台の楽しみ方は人それぞれ。
全通は偉いと思っていても、それは個人の価値観で、誰もが認める絶対的な偉さではありません。
思うのは自由ですが、アピールとか、他への批判をしないでもらえたらいいなぁと思います。

わたしの面倒な認知観―「認知されたい」と思いたくない―

認知については、いろんな方がいろんな見方で書かれていて、とても面白いです。
認知についてはいろいろ思うところがあるのですが、この面倒くさい自分の胸のうちを書いて整理しておこうと思います。


まずはじめに、認知されたい派かされなくない派かですが、わたしは「認知されたいと思いたくないけど認知されると嬉しい派」です。
実に面倒くさい。

認知を求めて行動するのは大嫌いです。自分が相手に「見られたい」と思って行動していると自覚するとものすごく不快になり後悔します。
自分はあくまで舞台上での、作られたアイドル(偶像)としての彼が好きだから応援しているのであって、ただのイケメンだから好きになったわけじゃない!という変な自負が働いてしまいます。
だから、寝る間際のベッドでの自撮りを見て、「かっこいい、付き合いたい」とか思っちゃう自分をひたすら後悔します。自分はリア恋じゃない、演技が、歌が、ダンスが好きなの!と言い聞かせています。
面倒くさい。

この面倒くささを実感したのは、以前の記事でも書いた「ファンサうちわ」のせいです。
はじめて使ったファンサうちわ。本当に面倒で苦手です。
「見たい<見られたい」になっているのを視覚的に突きつけられました。

これは自分に対する言い訳なので、他の人が認知を求めているのはそこまで不快なわけではないです。
度を過ぎたものには嫌悪感がありますが。
あくまで「認知を求めてしまう自分」が嫌なのです。

そもそも、面倒くさいわたしがいやだいやだと思いながらリア恋しているのが最近推し始めたBさんです。
もしBさんと付き合えるなら付き合いたい。でもBさんがファンと付き合うような人だったらいやだ、という酷い矛盾を抱えております。


今までこの面倒な認知感を自覚せずに生きてこれたのは、10年来ファンをしているAさんの対応のおかけです。
まず、わたしはAさんに認知されています。
どこからが「認知」かというのはあやふやなところですが、とりあえず握手会に行って「いつもありがとう」「また来てくれたんだ」といったような、「よく来る奴」という認識をされています。名前と顔はたぶん一致していません。名乗らないし。
それでも、はじめて「いつもありがとう」と言われたときは衝撃でした。「この人わたしのことわかってる!?」とものすごく驚きました。
しかしまあ、それも当然なんです。
はじめて言われたのはたぶん握手会などにコンスタントに参加するようになってから5年ほどたった頃でしたし、むしろわたしだってよく来るファンの顔、50人くらいは覚えていましたから。短い間とはいえ、一対一で向き合っている彼がその50人程度の顔を覚えるのはそう難しいことではないと思います。というかたぶん顔だけなら150人くらいは覚えてるんじゃないかな、あの人。

参考に書いておくと、その人の接触イベントはCD発売などのタイミングで、1作品で5回くらい。それが年に2作品くらい。その他2年に1度くらいファンクラブイベントツアーがあります。
毎回200人程度が参加、毎回参加する人が50人くらい、毎回ではないがまあまあ参加する人100人くらい、その他新規やきまぐれ50人、といったところです。体感ですが。

自分も周りのファンを覚えるくらいだから、覚えられて当然。
素直に、覚えてもらったことが嬉しかったです。こっちから覚えてもらうためのアクションはなにもしていませんから。ただただ、彼を見たいがために通っていた握手会やサイン会やインストアイベント。単純にわたしが彼を見ていた時間の副産物でしかありません。
そこからこじらせて「もっとわたしを見て!」とはなりません。

わたし以外にも大勢が認知されていることを知っていますし、Aさんは認知しているからと言ってライブで人を選んでファンサをしたりする人ではありません。
あくまで認知されていることによって、接触イベントでただの「ありがとう」ではなく、「“いつも”ありがとう」と言ってもらえるだけです。
新規に対しての優越感はなくはないですが、古参が多過ぎて大した優越感にはなりません。
がっつり追っかけてる人が、わたしがファンになりたての頃からほとんど変動しないので、10年経つ今もなんとなく自分のことを古参と呼べずにいます。古参がずっと古参だから…。

Aさんに対しては本当に見られたいとは思わないんですよね。
Aさんにリア恋したことは1度もなかった……わけではないかもしれませんが、一過性の熱が落ち着いて、敬愛へと変わる頃(ファンになって2年くらい)まで接触イベントに参加したことがなかったのがよかったのかもしれません。
この穏やかな気持ちでファンでいられることがどれほど幸せなことだったか。
それがどうしてこうなった。

認知されるための行動はしたくないと思いながら、Bさんには毎回同じオリジナルの便箋で手紙を書いています。
ファンレターの話を皆さんが書いているのを読んで、便箋で覚えてもらう、という可能性を知ったからです。
これまではそんなこと微塵も考えたことがありませんでした。ファンレターはただ思いの丈をどうしても伝えたいから書くもの。思ったことさえ伝わればいい。
もちろん今もそう思っていますが、プラス、ほんの少しでも「わたし」が残ればいいなーなんて思ってしまいます。

出待ちをしている人を見ては、どうでもいい嫉妬心が生まれます。
わたしはどれだけリア恋でも疲れている彼の迷惑にはなりたくないので出待ちは絶対反対です。
でも、待てば会えるのも事実です。だからみんな待つんです。
わたしが帰ったそのあとで、出待ちをした誰かとBさんが話をしているかもしれない、と考えてはもやもやします。

リア恋故にファンイベントに参加するのも踏ん切りがつきません。
まだど新規だということもありますが、ファンイベントで他の人と話しているBさんを見て、嫉妬しないかが不安です。
嫉妬をする自分を想像するともやもやして気持ち悪いです。絶対嫉妬なんてしたくない。
それこそ認知されている人と楽しそうに話していたら、自分も認知されたい!と行動が加速するのではないかと思うといやになります。

Aさんの握手会では、自分の番が終わってから1時間以上ひたすら他の人と握手して話している姿を見ていても幸せを感じられるのに。

と、こんな感じでわたしの認知に対する考え方はとても面倒な自己矛盾をはらんでいます。
認知されたくないわけではない。しかし認知されるためにがんばって行動はしたくない。


純粋に俳優としての面だけを尊敬して、応援できれば幸せなのに。リア恋なんてしたくなかった。
もしくはリア恋しても気にせず突っ走れるような性格になりたかった。

「イケメン若手俳優」と称される彼らは、「若手」が取れても「イケメン俳優」としてやっていけるのだろうか


わたしは自分の推しがいったいどの程度の位置(地位?)にいるのか、よくわかりません。
本格デビューはテニミュだし、その後も2.5次元舞台や俗に言うイケメンわらわら舞台を中心に活動しているので、まあイケメン若手俳優と称して問題ないでしょう。
しかし、年齢も上がってきてそろそろ若手とは言えないし、2.5次元舞台も卒業なんじゃないかなぁ…という感じです。推しはじめて数ヶ月なので何も知りませんが。
最近は小劇場の舞台に多く出ているような印象的です。今のところ、次に2.5次元に出る予定はありません。



自分は2.5次元から入ったくせに、推しには今後2.5次元には出てほしくないなぁ…と思ったり。わがままですね。
でも、2.5次元を中心に活動している若手には、どうしても限界を感じてしまうのです。それは、同年代しか出ない舞台での成長の限界だったり、単純に年齢の限界だったり、知名度の限界だったり、いろんなものがあると思います。

やはりどうしても、一般人から見たら2.5次元はイロモノですもの。自分もどハマりする前は「お金をかけたコスプレ」程度に思っていました。
有名ではない若い人たちが、コスプレをして歌って踊る。多少歌や演技のクオリティは低くても、そこは「イケメン」ということで許されてしまう「幼稚な演劇」…そういった認識でした。
今はそれは誤解だったと思いますし(一部以前の認識どおりの舞台にがあることも事実ですが)2.5次元の楽しみは、他の舞台とはちょっと違った特殊なものがあることもわかるようになりました。

それでもやっぱりイロモノです。2.5次元出身と言ったときの世間の反応なんてそんなもんです。
テニミュ出身でもそれを打ち消すほどに知名度を上げて「えっ、テニミュに出てたの?!」と言われるような人もいますが、ごく一部です。

わたしは2.5次元舞台での経験を悪いものだと思っているわけではありません。大勢が心血を注いで作った作品に携わることが悪い経験なわけがありません。
2.5次元作品で好きなものもたくさんありますし、もし彼らがそれに関わったことを後悔していたら悲しいです。
それでも2.5次元に出ていた、というのはある種の偏見を含んだレッテルを貼られることと同義だと思っています。

似たような例で言えば、ニコ動出身の歌手や声優のようなものでしょうか。別にニコ動からブレイクしようが、オーディションなどを経てデビューしようが、売れてしまえば同じかもしれません。
それでも「ニコ動出身」という肩書きは後々までついて回ります。
わたしの知り合いに声優志望がいますが、「ほんの端役でも何でもいいからデビューできるまではニコ動には手を出さない」と言っていました。
まあ、売れる人はニコ動をやろうがやるまいが、そのうち売れるとは思いますが。



話を戻します。
2.5次元を中心としている若手は、そういったある種のレッテルを貼られた状態で、若手と呼べなくなったときにどうなっていくのでしょう。
そもそも、若手俳優界隈に詳しくないので若手のその後がどうなっていくのかをよく知りません。わたしが知っているごく一部は、ライダーものに出たり、声優をやったり、小劇場に出たり…そのくらいでしょうか。

中でも声優は最近増えてきたような気がします。これはある意味一番堅実な「延命処置」なのかもしれません。
もともと2.5次元を見る人は原作を好きな人が多くて、アニメが好きな人が多くて、声優に対しても好意的な人が多い、と言えるでしょう。
また、昨今の声優界もイケメンブームです。歌って踊れるイケメン声優がもてはやされる時代です。2.5次元出身ならもちろん歌って踊れるし、もともと顔で勝負していない声優の中に入ればほぼ間違いなくイケメン枠を勝ち取れます。
さらに、彼らにとって堅実な「延命処置」と言える一番の要因は、ピークの年齢です。
今の声優界でトップと言える人気を誇っているのは40歳前後の層でしょう。
2.5次元舞台の中心が10代から20代前半、よくて30過ぎまで、といった現状に鑑みると、少なくとも10年程度の「延命」が可能です。


その年齢になる前に人気が出なくて消えていく人がほとんどだとは思いますし、それを言ったら俳優としてやっていくのと大差ないのかもしれません。しかし、声優にはもうひとつ利点があります。
それは「追いやすさ」です。

これは最近自分自身が俳優を追っかけて実感していることですが、俳優を追うにはかなりの「お金・時間・気合い」が必要です。小劇場でやるような舞台は円盤になることも少なく、その日その時に見に行かなければ俳優の活躍を目にすることはできません。
2.5次元舞台から入った人のうち、いったいどれだけの人がそこまでの労力を俳優自身に割けるでしょうか。
好きな作品から推しが卒業してしまうのに合わせて一緒に卒業、その後追っかけというパターンは少なくないでしょうが、多くもないと思います。
また、そこまでして次に注目するのは好きな作品の中でも一推し、せいぜい二推しまででしょう。
「好きな作品に出てたけどそこまで推してはなかった○○くんが出ている小劇場の舞台があるらしい、見に行こうかな」とまでなる人は相当な観劇好きでしょう。

では、声優ではどうでしょう。
「好きな作品に出ていたけどそこまで推してはなかった○○くんが今度のアニメに出るらしい、見てみようかな」くらいには比較的簡単に気持ちが動くのではないでしょうか。そこには圧倒的な「お金・時間・気合い」の必要量の差があります。
そもそも、声優であれ俳優であれ、テレビでの露出は簡単に目に入りますからね。
単純に、声優は2.5次元舞台の客層の目に入りやすい、ということです。



で、つまり何が言いたかったかというと。
いろんなしがらみはあるでしょうが、わたしの推しが「イケメン俳優」として生き残っていければいいなぁ…という話でした。

背景のわからない人を好きになる恐怖

 

上記の記事を読んで、わたしの漠然とした不安はこれだったのか、と思いました。

応援している人が将来なにになりたいのか、それがわからないと不安になる。ある日突然、もっとやりたいことがあるからと目の前から消えてしまうかもしれないから。

 

今までそのような不安を感じたことはありませんでした。

わたしが10年来応援しているAさんは、物心ついた頃から歌手になるのが夢で、今もひたすらその夢を実現させています。ずっと夢だったのだと、何度も何度もファンに話してくれます。そして、今の状況に満足しておらず、もっと良いものを、と考えていることもいつも伝えてくれます。
この人は、なにか事務所の都合か自分の体調などに問題が起きない限りは死ぬまで歌手を続けてくれるのだろう、と安心して応援することができます。

 

でも、最近好きになったBさんはあまりそう言ったことを話さない人です。

わたしが知らないだけで、どこかで話しているのかもしれません。昔からのファンの間では常識なのかもしれません。でも、わたしは知らないのです。

彼がずっと演技で食べていくつもりなのか、その覚悟があるのか、その見通しがあるのか、それとももっと別の目標があるのか、最近好きになったばかりのわたしには知るすべがありません。
ブログも舞台の千秋楽後に全体の感想など書くくらいですし…。
演技に対して真摯に向き合い、常に真剣であることはことばの端々からわかります。でもそれだけなんです。その仕事を大事にしている、ということと、この仕事が本当にやりたいことである、ということは必ずしもイコールではないのです。

それがこんなに不安だとは思いませんでした。
 熱をあげて応援している人が、明日も変わらずその場に居続けるということは、奇跡のようなことです。
できるだけ長く、願わくはずっと変わらずに、わたしにあなたの夢を見せ続けてください。

「推し」という違和感

今までの記事では便宜的に「推し」という言葉を使ってきましたが、正直自分の好きな人を「推し」と表現するのには違和感があります。

推しはたぶん、アイドルグループなどから輸入されてきた言葉で、どうしても「複数人の中から選ぶならこの人!」みたいなニュアンスを感じるんですよね。

まあ確かに複数いる人の中からその人を選んでいることは事実なんですけど。でも、アイドルグループのようにいつも比較対象が一定ではなくて、それこそ不特定多数の、星の数ほどいる人間の中からその人を選んでいるわけです。それを「推し」というのはなんだかな…と思ってしまいます。

 

まあ、じゃあなんというんだという話になるわけですが。わたしはやっぱり、「○○さんのファン」というのが一番しっくりくる気がするんですよねぇ。

特に10年近く追っかけてる人に対しては、ファン以外に上手く表せる言葉がありません。たぶんわたしが「推し」という言葉を知る前から「推している」からだと思います。

それに対して、最近好きになった俳優さんに対しては「推し」と言ってもそこまで違和感はない。心の中で、10年近く追っかけてる人と比較しているのかもしれません。

 

じゃあその本人のことはなんというのか。まあ名前で言うしかないですよね、推しくんとかに当たる言葉はないですから。

若手俳優ファンの方々は本人の名前を出さない方が多いので、どうにも表現しにくくて推し、という言葉に落ち着いているのでしょう。

 

 

なにかいい言い方があればいいのですが…。

特に思い付かないので、これからは10年好きな人はAさん、最近好きになった人はBさんとでも呼ぼうかと思います。

ずっと推してきた人が一番じゃないかもしれないと思ったとき

わたしは、その人を推しはじめて10年ほどになる。
その人はアイドルのような歌手のような声優のような(知名度的には声優が一番上だと思うけど本人はシンガーソングライターを自称しているのでそこを尊重したいと思っている)人だ。
はじめはCDを買ったりしていただけだったのでオタクというほどではなかったが、年に1回必ずツアーに参加するようになり、1回のツアーに複数回参加するようになり、接触イベントに通うようになり、推しに顔を覚えてもらえるようになった。
わたしの青春はその人と共にあると言っても過言ではない。年数を数えるとき「何年生のときにあのツアーに行ったからあれは何年前」というカウントをしてしまうくらい。
部屋には常に2枚以上のポスターが貼ってあり、遊びに来る友人の間ではすっかり有名人。わたしがその人のイベントに行くと言うと、「彼氏とデート」と言われて冗談半分、暖かく見守られ、延々と気持ち悪いテンションで話す感想を聞いてもらっていた。

そんな「わたしのすべて」と言えるような人がもしかしたらイチオシではないのかもしれない、と感じてしまったのは、新しい推しができたからだ。

新しい推しは所謂若手俳優で(年齢的に若手とくくるのかは微妙だが)、2.5次元舞台に出ていたのがきっかけで知った。
その人はその作品でわたしが一番好きなキャラクターを演じており、はじめからかなり注目していた。
はじめはやはり二次元との差を感じて、そこはあのキャラならもっとこうだろう、ここはすごく似てるけどここは違う、なんて多少の不満もあった。
しかし、人となりもあって、1年間見続けた結果、かなり好きになっていたようだ。
(その人自体は作品に3年関わっていたが、わたしがド新規なため見ていたのは1年)

それを自覚したのは、その人がその作品を卒業する、と知ったとき。薄々感じてはいたが、ハッキリと次には出ないことが発表されて泣いた。そんなことで泣くなんて、自分でも信じられなかった。
別にその人が死んだわけではないし、もちろんキャラも死んでない。芸能界を引退したわけではないのだから今後も見ることはできる。
それでも、その人が演じるキャラクターがもう見られないのだと思ったら、数日の間はふと思い出して泣き出してしまうくらいにはショックだった。
ああ、こんなに好きになっていたのか、とはっきりと自覚した出来事だった。

それでも、本当にその人が好きなのか、ただその人が演じるキャラクターが好きなのかは自分でもよくわかっていなかった。
その時点で「その人=そのキャラ」で、わたしの中ではあまり区別がなかった。

わたしが本当に好きなのは人なのかキャラなのか、確かめるつもりでその人が出演するオリジナル舞台を見に行くことにした。
今までトキメキをくれたお礼のつもりで、少し高い良席を買った。


結果、わたしはその人が大好きになってしまったのだという事実を確認して帰ることになった。

舞台でキラキラと輝く彼を思い出しては胸が高鳴った。
帰りの電車の中でファンクラブの入会手続きをした。

誰かを推す理由は「トキメキ」だけではないと思う。でも、トキメキが大部分を占めるのも事実ではないだろうか。
元々の推しに対して、わたしは今でもときめいているのだろうか?少なくとも今、舞台を思い出したときのトキメキと、前回ツアーに行ったときのトキメキを比べてみたら…。
最近、接触イベントにも緊張しなくなってきている。正直、自分のその心境の変化が悲しい。
推しとはいつまでも初めて会ったときの緊張感を持って接したいと思っていたから。

だらだらと書いてしまったが、まだ自分の心がよくわからない。
たぶん、次のイベントが発表されたとき、自分がどの程度行きたいと思うのか、それで計れるのではないかと思う。


推し変する人はどのような心境なんだろうか。
わたしは10年間同じ人を見続けてしまったために、他の人に自分の気持ちがいってしまうのがものすごく怖い。
怖いから、という理由で推しにしがみつくのも嫌だから、しっかりと自分と向き合って、今後を考えていきたいと思う。